
こんばんは。管理人TAKU(@takulog0712)です。
世の中というのは実に不思議なことが多く、
一つの物事に対し、賛否両論を飛び交うのが日常。
ですが、否定・批判にそもそも意味はあるのでしょうか?と思う管理人。
今回は、フグ料理を例に、色んな角度でお話したいと思います。
便利は常に犠牲の上にある!?
世の中の便利、美味しいというのは常に何かの犠牲の上にあるという事を忘れてはいけないでしょう。
上記でもお伝えしたように「フグ料理」
和食界の高級品とされる食材で、様々なシーンで提供される料理ですが、
皆さんもご存じ、フグには毒があり、免許がなければ調理することすら許されない食材です。
正しく調理することで、美味しく食べれるフグですが
何故、毒があるという事を人は知っているのでしょうか?
現代技術を用いれば、毒の有無を調べること容易であるかも知れませんが、
フグ料理が世に広がるまでは、フグは禁止とされる食材だったそうで、
その背景にあるのは「フグによる犠牲者」がいたという事でしょう。
その時代では、
フグにどんな毒があり、どこを取り除けば良いのか?
それすら検討もつかなかったでしょう。
しかし、その犠牲と長い研究の中で、
今現在「美味しい食材」と認知されているという事を知っておく必要があるのでないでしょうか?
批判は相手をバカにしているようで、自分をバカと認めるようなもの!?
批判はある種「相手をバカにする」行動でもあるというのは、
フグを食べて苦しんだ人が「それでもフグは上手い、なんとか食える方法はないか?」
と考える人に対し
「苦しんでまで食うのはバカだ!!」
といっているのは同じです。
フグの毒抜きを研究する人は「挑戦者」であり、それをバカにする「傍観者」といった感じですが、
この「挑戦者」をバカにする「傍観者」というのは、いつの時代のどんな業界にも存在しています。
近年では、様々な媒体で、様々な業種が生まれ
「明日何が仕事になってもおかしくない時代」であり
YouTube、TikTok、17Liveなどなど、年齢、経歴も関係なく仕事として活動する方も増えました。
それと同時に「一時的なもの」「いつか終わる」
と批判する方も増えましたが、
そもそもどんな業種も「いつまで続くか分からない」というのが現実。
その先が見えない中で、挑戦者をバカにする傍観者という関係は常に成り立ちますが
挑戦者の成功と同時に、傍観者自身が「バカ」となる
というのもまた事実です。
否定したものが肯定されるという事は
こんなことする奴はバカだと否定していたものが否定されるという事でしょう。
批判するなら覚悟を持て
批判すること自体、管理人は悪いとは思いません。
人である限り理解できないことも沢山あるでしょう。
ただ、批判するということは、
自分自身の可能性を無くす
という事も忘れてはいけないでしょう。
上項の話と繋がりますが、
例えば「フグを食うやつはバカだ」といって
フグの毒抜きが成功し、当たり前に食べれるようになった時
バカだ!と言ってた人はフグを食べますか?
食べるも、食べないも自由ですが、
食べれば、バカにしていた人に頭が上がりません
食べないのであれば、その味を知ることは出来ない
どちらにせよ、あまりいい結果にはなりません。
つまり、批判するには覚悟を持たばければいけないのです。
YouTubeを否定して、YouTubeで知り合いが稼いでるのをみて
自分がそれを始めた時には
「お前あんなにバカにしてたこと自分でやるのかよ」
なんて非難を受ける可能性が出るという事です。
批判する前に興味を持ってみましょう。
そもそも人が批判する理由いくつかあり
- その分野が怪しい
- 成功事例がない
- 単純に楽な感じがムカつく
などです。分かり易くいうと
必死に働いているサラリーマンが、呑気に仕事しているフリーランサーを見て
「こいつ俺より楽そうなのに給料多くてなんかムカつく」
みたいな感じから
「正社員じゃないから不安定だ!」
「そんなの長く続かない」
といった理由で批判に繋がるのですが、
見える部分と見えない部分の中で
見える部分だけで判断するとそうなります。
ですが、この見えた部分で批判するのではなく
見えない部分に興味を持つ
ということが大事ではないでしょうか?
批判と興味の関係性とは非常に面白く
「こいつ俺より楽そうだな」という感性に対し
ムカつくと考えれば、批判に繋がり
何故、楽にしてて儲かるの?と思えば興味になります。
批判しても何も生まれないのであれば、
興味を持ってチャンスを生む方が自分の為です。
人々がフグを美味しい料理と捉え、今でも親しまれるように
自分自身の可能性を広げる為にも、批判する前に興味を持つようにしましょう^^